山の言葉(ことば)            土田耕平
  

 世界でもっとも大きな高い山ヒマラヤ。世界でもっともすぐれて美しい山富士(ふじ)。この二つの山と山が、はるかに海をへだてて、立ちそそり、向かいあっております。
 ヒマラヤが、富士に呼びかけました。
「君、どうです。久しぶりで、またなにか物語をしようではありませんか。」
 富士の声が、(かる)初雷(はつかみなり)のように雲をゆるがして答えました。
「よろしい。君とさきに(かた)らいをしてから、およそ三千年はすぎました。時に何か()にとまるほどの変わった出来事(できごと)がありましたか。」
「わたしは、今ひとねむりしてめざめたところです。まず君の見聞(けんぶん)をうけたまわりたい。」
「わたしの背丈(せたけ)は、君に遠く(およ)ばない。ただまわりに青々とした海原(うなばら)。そして、むこうに雲のころもをまとうた陸地(りくち)、その上にひいで立つ君のいかめしい雪の姿!」
「わたしのまわりには、黒々と岩。木立(こだち)につつまれた山また山。そのむこうに砂漠(さばく)が見える、平原(へいげん)がのぞいている。海の色もかすかに光っている。しかし、べつにとりたてて眼をひくほどのこともない。」
 富士の声に倍して、ヒマラヤの声は百の落雷(らくらい)をひとときに聞くように、おそろしくひびきます。けれど、この二つの大きな山と山との語らう声は、かぎりない空中にこだまして消えて行きます。
 二つの山は、ゆったりとして語りつづけます。
「時に、あの小さな虫けらどものことですがね。」 と富士がいいました。
「虫けらども? あの人間と呼ぶ?」 とヒマラヤがいいました。
「そうです。人間どもの数は、少しばかりふえたようです。このあいだ君と語った世には、まだわたしの足もとに、豆つぶを指のあいだから取りこぼしたほどに()ぎなかったのだが、このごろは、いや、うるさいほどわきたっています。」
「ほう、それはそれは。」
「何かむずがゆいとおもって気がついて見たら、時々、頭の上まではいあがって来ます。人間どもは、それを踏破(とうは)といい、また征服(せいふく)といっていますよ。」
「征服? 君を征服したとでもいうのですか。」
「まあ、そういう意味でしょう。」
「で君は、あの小さな虫けらどもに征服されたというわけですか。」
「さあ、征服とは、人間どもがどういう意味であるのか()しかねますがね。わたしが、またふたたび荒息(あらいき)に火をふく時が来たら、人間どもは一瞬(いっしゅん)のまにほろびてしまうのでず。しかし、どうてす。君はむかしながらに雪と氷のよろい姿に見うけるが、人間どもは君にはまだ近づいていませんか。」
「いや。わたしのまわりも目にたって来た。なにぶん小さな虫けらのことで、見つけ出すに骨が()れるが――うむ、(かた)の上まではいのぼったのが二つ三つと、まだいくらも見えます。」
「そうですか。」
「しかし、首から上にはまだ一つも来ない。どうかして登ろうとあがいているようですが、あわれな小さな動物にすぎませんよ。」
「さよう。私もやがてひとやすみしたら、地上を火のほのおでなめつくす。君は(ふたた)び氷と雪のしきものを砂漠から平原一帯(いったい)におしひろげてしまう。そのとき、あわれな虫けらどもはことごとくほろびてしまいます。」
「そのあいだに、虫けらどもは子を生み、(まご)をうみ、いく千度同じことをくりかえすでしょう。」
「そうです。だから人間どもは、みずから小さな無力なことをかえりみて(つね)につつしむべきだ。征服などという言葉はかれらには適当(てきとう)していない。」
「わたしども山の(れい)はもう少し謙遜(けんそん)である。この大空のかぎりない高さ大きさを知っているから。そして、この地上に立っている山のいのちもやがてつきる時がきて、(かぎ)りない神のいのちにおさめられて行く。だから、わたしどもはだまっていのりつづけています。」
「そうです。いのりつづけています。高いものほど、より以上に天のかぎりないことを知るのです。」
「思わず長ばなしをしてしまいました。さてこれで今日はお別れにしましょう。」
「さらば、また三千年の後に。」
 富士もヒマラヤも、沈まりかえって、ふかい夜そらに、星がかがやいています。

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