むかし
陳忠はじめ
そうして山の霧にたわむれきょうじながら馬をすすめて行きますうちに、あるかけ橋の上にさしかかりました。ちょうど霧のかたまりが流れてきて一同のすがたをとりつつんだ時、陳忠の馬がものにつまずいたはずみに、くらをふみはずして陳忠は、アッという間もなく、霧の流れといっしょにがけの下へころげこんで行きました。
「落ちたのはだれだ。」
「
みな馬からとびおりました。そしてかけ橋の上に腹ばうようにして、谷を見おろしました。今かすめ去った霧がもうもうとしてなにも見定めがつきませんでしたが、やがて霧が
高いすぎのこずえがはるか下の方に見おろせるのですから、谷の深さが思いやられます。がけはびょうぶを立てたようにまっすぐに谷底へなだれていて、とても下へおりるてだてはありません。たがいに顔を見合わせるばかり、たれ一人声を出すものもない。今まで
その時、
「オーイ」
という声がかすかに聞こえました。みなかけ橋の上へ乗り出すようにして谷底の方を見つめました。するとまた、
「オーイ」
と呼ぶ声が耳に入りました。声はたしかに谷底のすぎの木の中から聞こえたのであります。
「殿だとのだ。」
「生きておられるのだ。」
みなの口がほぐれて急にきわぎ立ちました。その時また谷底の方でなにかいう声がしました。
「オイ殿がいわれたぞ。」
「静かにしずかに。」
とたがいに
「はたごをおろせ。」
という声がかすかに聞きとれました。(はたごというのは、馬の食物をもるかごのことです。)
みな声をそろえて「オーイ」とがけの上から呼びかえしました。一同の顔は急に生きかえったようになりました。おのおの
ほどなく、谷底から、
「オーイ、ひき上げろ。」 という声がかかりました。
「ソレ」 というのでみなのものは、手に力をこめてつなをたぐりはじめました。ところがどうしたのか、はたごは軽くずんずんあがって来ます。人ひとり入っているにしては、あまりにたあいなく引きあがって来ます。
「殿は入っておられるのだろうか。」
「なんだかへんだね。あまりかるすぎるじゃないか。」
などと、つぶやく人もありましたが、そのうちにはたごは見る見るひき上げられてしまいました。
「はたごをおろせ。」 という声が谷底から聞こえました。
みなのものは、はたごの中のひらたけをうちあけて、またまた谷底に向けてつなをたぐりおろしました。しばらくしますと、
「あげろ。」 という声、ひき上げてみますと、こんどはつなに手ごたえがあります。
「ヤレヤレ重たいぞ。」 とみな力をこめてたぐり出しました。はたごはだんだんひき上げられて来ました。どっこいしょと、かけ橋の上へ持ち上げたはたごの中から顔を出したのは、まがいもなく殿の陳忠でありました。みな、
「ばんざい!」
と
「ヤレまあ、そまつなことをしたものじゃ。」
と、くやしそうに、一つひとつきのこをひろいはじめました。
「わしは谷へころげ落ちた時、すぎの枝にヒョイとささえられたのじゃ。かすり
こんなことをいわれますので、家来たちは殿ののんきなのに、あきれてしまいました。
「でもまあ、この大事の場合にきのこなどは――」 と家来の一人がいいかけますのを、陳忠はさえぎって、
「だからおまえたちはだめだ。むかしのことわざに、ころんだところで土をつかめ、ということがある。このひらたけを見てただかえられようか。まだまだたくさんあったのに
といいました。家来たちはもうなんにもいわずだまってしまいました。きょうざめた顔をして、それぞれの持ち馬にまたがって、また行列をつづけました。陳忠の心は