光りもの            土田耕平


 むかし、白河天皇がみ(くらい)を去って上皇(じょうこう)であられた時のお話です。
 ある時のこと、御家来四五人をおつれになって、おしのびで、京都の町はずれのさびしいところをお通りになりました。おりから五月雨(さみだれ)のころで、しとしとと雨がふりそそいで、木立のしげった道は、ものの形もわからぬ暗やみでした。むろん電灯などという便利(べんり)なものはなかった時代のことであります。
 一同のものは、上皇をおまもりして、暗やみの中をたどってまいりました。と、木立の(おく)にあたって、ふいに光りものがあらわれました。それは、見るからもの(すご)恰好(かっこう)をしておりました。頭は一ぱいに銀の針を植えつけたようにぴかぴかと光り、片手には(つち)の形をしたものを持ち、片手にはあやしげな(つぼ)の形をしたものを持つております。その壷の中から、しばらく間をおいては光がさしますと、それが頭の針一本一本にうつりかがやくのでした。
 上皇をはじめ御家来たちは、大そうおどろかれました。みな足をとめて、しばらく光りものの姿を見守っておりましたが、さて何ものであるか、見きわめがつきません。その(ころ)の人は、(おに)というものが実際世の中にあると信じていました。で今えたい(・・・)の知れぬ光りものを目のまえに見て、その片手に槌の形をしたものを持っているのは、鬼が宝とするうちで(・・・)の小槌ではあるまいかと思いました。
 光りものは、だんだんとこちらへ近よってくるようすであります。みなのものは上皇をうしろにおひかえ申して、手に手に弓矢太刀(たち)をとって、寄らばうち取らんと身がまえました。あるものは、弓をひきしぼつて、(あやう)く矢を射はなとうとしました。
 その時、御家来のうちの一人に、平忠盛(たいらのただもり)という武士がおりました。
「しばらく。」
といって、矢をつがえた人の手を押さえました。
「たとえ鬼であらうとも、射殺(いころ)すはむざんのこと、私がまいって生けどりにいたしましょう。」
 忠盛は、上皇のおゆるしを得て、ただ一人(やみ)をついて、光りものの方へと進んでまいりました。しのび足で近づいて行って、うしろからムズと()きしめました。光りものは声をあげて、
「これこれ、何をなさる。」
というのは、何と(うたが)いもない人間の声でした。
 忠盛は手をゆるめて、仔細(しさい)にあらためました。その光りものと見たのは、六十ばかりの老人で、雨をふせぐため、麦わらの()みつくねを頭にいただき、片手に油瓶(あぶらびん)を持ち、片手に火をともした土器を持っていたのでした。土器の火が、頭の麦わらにうつり、雨のしずくにぬれて、あやしくものすごく見えたのであります。うちでの小槌と見えたのは油瓶でありました。老人は、そのあたりの御堂(みどう)へ灯明をあげにきたところでした。
 一同のものは、じぶんらの大きな間違(まちが)いを知って、どっと笑いすごしてしまいました。けれど、上皇はその夜の忠盛の行為(こうい)を大そう感心なされて、後いく度もおほめのことばがありました。この忠盛の子が、有名な平清盛(きよもり)であります。

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