宗平(そうへい)(わに)            土田耕平


 むかし駿河(するが)の国に私市宗平という人がありました。(その)あたりでならびない剛力者(ごうりきもの)だという評判(ひょうばん)でした。ある時村の人々とつれだって、近くの山へ鹿狩(しかが)りにまいりました。
宗平の()た矢はたちまち一頭の大鹿を射とめました。鹿はいたでにたえかねて、山をかけ下りて彼方(かなた)の海へザンブとばかりとびこみましたのを、あと追いかけて行った宗平は、着物をぬぎすてて、これもまた海へとびこみました。
 鹿ははるかに沖をめがけておよいでゆきます。宗平は()き手をきって泳ぎゆき、やがて追いついたとみるまに、大鹿の後足をひっかかえて(かた)()いました。其ありさまは、陸上のはたらきにすこしも変わりがありませんでした。岸に立ってながめていた人々は、今さらながら宗平の剛力におどろいて、一せいに感嘆(かんたん)のこえをあげました。
 ところがそのとき沖のかたにあたって、にわかに白浪(しらなみ)が立ち、矢のような早さで宗平にせまってくるものがあります。
「鰐だ鰐だ。」
「鹿なんぞどうでもよい。早く逃げてこい。」
 人々はさけびました。
 沖の白浪は一直線によせてきて宗平の後へぶつかりました。
「ああやられたか。」
と人々は思わず目をつぶりました。けれど一瞬(いっしゅん)ののちには、白浪はサッと沖の方に立ちかえり、宗平はあいかわらず鹿を負うたままおよいでいます。
「鹿なんぞもういらぬというのに、早くにげかえれ。そらそらまたやってきたぞ。」
 人々は手をふってさけびました。一たん沖へたちかえった白波は、また矢のような勢いで近づいてきました。そして宗平の後へぶつかったとみるまに、やがてまた沖の方へかえってゆくのでした。
 三度白浪がたちせまってきたとき、宗平はもはや岸近く三四間のところまでおよいできました。肩に負うていた鹿は、頭と胴を食いとられて、大きな後足ばかりが形をのこしていました。
「まだそんなものをかついでいるのか、早く岸へ上がれ。」
と人々がさけぶまもなく、白波ははげしくざわめいておしよせました。それは見るもおそろしい大鰐でした。二つの眼はらんらんとかがやき、大きくひらいた口には、するどい(きば)(のこぎり)の歯のようにならんでいました。あとふりかえった宗平は、鰐の口めがけて鹿の後足をぐっとさしこみ、力にまかせてふりとばしました。と鰐は地ひびき打って(いそ)の上へ投げだされました。そのあとから宗平は血まみれになって上がってきましたが、それは(きず)をうけたためではなく鹿の血をあびたのでありました。
 宗平が人々に語った言葉は、つぎの(ごと)くでありました。
 鰐は食べものをえたときには、かならずその住みかへもちかえるものです。でわたしは、はじめに鹿の頭だけ食いとらせました。つぎに(どう)を食いとらせました。その間に岸ちかくまでおよぎもどることが出来たのです。最初鹿の全身を手ばなしてしまったなら、次ぎにはわたしの身体がえじきになったでしょう。まあおかげて命びろいをしました。

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