試合 土田耕平
むかし京都に、吉岡兼法という武芸者がありました。この人は、はじめ糊屋の小僧で、竹べらで糊をねることを毎日の仕事にしていました。前へとんでくる蠅を、その竹べらで押さえることから、だんだん工夫をつんで、ついに剣道の奥儀をさとりました。でこの人の用いた刀は、大へん短かったそうであります。
あるとき、この吉岡兼法が、時の関白豊臣秀吉に召されて桃山の聚楽の邸へまいりました。おりから、加藤清正、福島正則、加藤義昭などという、豪傑たちがまいり合せていて、兼法と初対面のあいさつがありました。
はじめは、みな関白の御前でかしこまって威儀をただしていましたが、やがて武芸の話に花が咲いて、お互に遠慮がなくなりました。
「兼法殿、そなたが当代の名人であるという噂はかねがね、うけたまわっている。けれど実地に戦場をふんで腕まえをきたえた吾々の目から見るときは、そなたの芸はまあいわば泰平の代の手遊びにすぎないとおもうが如何じゃな。」
こういったのは、横紙破りとあだ名されている福島正則であります。兼法は、にこりと受けて、
「おことば恐れ入る。われらの芸はまことに当節の手なぐさみでござる。なれど、これにはいささか鋼鉄のよりがかけてあり、千に一つ貴殿ごときにおくれを取る気づかいはないつもりじゃ。」
といいました。そのようすは、心にくいほどおちつきはらっていました。
「やあ、いしくもいわれたな。しからば、論より証拠、この場において一勝負つかまつろう。」
「もとより望むところ。」
兼法、正則の二人は、立ちあがりました。みなの衆の見ている前で、実際の腕くらべをすることになりました。もとより真剣勝負ではありません。兼法は竹刀を用い、正則はレンポつきの槍を用いました。兼法の竹刀は二尺たらずの短いものでしたが、
正則の槍は恐ろしく長いものでありました。この人は、賎ヶ岳七本槍の一人で、槍を使うことは、かねて自慢でありました。
その場に居合わせた人々は、正則とともにいく度となく戦場をかけまわった豪傑たちでありますから、この勝負は正則に勝たせたくおもいました。そして必ずや正則の勝ちになるものと信じていました。万一負けたら、おれが代わりに立ち合ってくれよう、などと考えている人たちでありますから、あから顔に笑みを含んで、悠々とその試合を見物していました。
さていよいよ、えものを取って立ち合いましたところ、その勝負は意外でありました。兼法は目にもとまらぬ早業で、正則の長槍をうち落とし、ポンと一本お面をあびせました。術の力はおそろしいもので、剛力の正則がこたえもなく尻もちをついてしまいました。
「お手並あっぱれじゃ。いざ拙者が代わって相手つかまつろう。」
と立ち出たのは、加藤義昭であります。この人も槍じまんの一人でありました。義昭は、正則の見苦しい負けにかんがみて、充分慎重に立ちあいましたが、やっぱり駄目でした。兼法は、義昭がいきおいこんで突きかける槍さきを、かるく払いのけて、とびこみざまにお小手をくらわせました。
それから、幾人かの豪傑どもが、入り代わり立ち代わり、兼法に向かってみましたが、とても相手にはなりませんでした。
最後に加藤清正が出ました。清正は、正則にも劣らぬ大槍をしごいて立ちむかいました。勝負はやはりかんたんに終わり、兼法の竹刀は、苦もなく清正の大槍をはらい落してしまいました。
「恐るべき御手錬だ。何卒、もう一勝負願いたい。」
清正はいいました。
「お望みとあらば何回なりと。」
兼法は、さきほどから度重なる試合に、少しも疲れたようすはなく、竹刀を片手に平然と立っています。
「兼法殿、この度は拙者に少しばかり用意をさせてたまわれ。」
「何なりと。」
清正は、小者にいいつけて鎧櫃をはこばせ、あだかも戦場にむかうときのような身ごしらえをしました。頭には、あの恐ろしい長えぼしをいただきました。ただ槍だけが、タンポつきの稽古用のものでした。それから清正は、幕をひきまわして、そのかげの状机に腰をかけ、小者に命じて陣太鼓をドンドンと打たせました。槍を片わきに、目をつぶり、身をおちつけていますうちに、正しく戦場に向うときの心地になりました。清正はやおら立ちあがりました。兼法の前にすすみ出で、槍さきすさまじく、割鐘のような声をあげました。
「下郎、推参なり。」
ゆだんなく身がまえていた兼法は、フッと二間ばかり後へとびかえり、竹刀をガラリなげすて、
「まいった。」
と一声、その場にひれふしました。
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