物の怪 土田耕平
平の清盛が京都から摂津の福原へ都をうつしたことは、日本歴史を学んだ皆さんのよく知っていることでありましょう。この清盛という人は、じぶんの思いたったことは、人のめいわくもかえりみず無理やり押しとおしてしまうので、横紙破りと呼ばれていました。この都うつしも、横紙破りの一つでした。
福原は今の神戸です。前は海、うしろは山がせまっております。昔は今よりもずっと深く海が入りこんでいたそうですから、一国の都としては、ずいぶんせまくるしいところだったに違いありません。けれど人々は清盛の威光におそれて、不平を口に出すこともなく、追々に新らしい家が建てられて、ようやく都らしいありさまになってきました。まあこれならいいあんばいだと、清盛は思っていました。
するとある晩のことです。裏の松山の方で、人なら四五百人から千人ばかりの声で、どっと笑う声がしました。次の晩もまた次の晩も、同じような笑い声がしました。はては昼日中でも聞こえるようになりました。その笑い声のするたびに、兵士をさしむけて、何ものの仕業かさぐらせてみましたが、どうしても声の主は分りません。声がどっときこえるだけで、姿はかいむく分らないのでした。
そこで清盛は、童は三十人、夜は六十人の兵士をそなえて、蟇目の矢を射させることにしました。蟇目の矢というのは、射放つとき強い響きを発するようにできていて、魔物はらいに用いられるものです。兵士たちは、弓に矢をつがえていて、笑い声がするといっせいにその矢を射かけました。そうしますと、笑い声がぴったり止んでしまうこともあり、さらに大きな声で笑いかえすこともありました。笑いかえすのは、矢がうまくあたらなかったとおもわれる時です。兵士たちはみんな気味がわるくなり、この蟇目の番にあたるのを何よりいやなことにおもいました。
蟇目がさっぱり験がないので、そのことを清盛に告げました。清盛は、
「能なき奴どもじゃ。」
とあざわらって、みずから蟇目の番に立ちました。大切な身分でさようのことはよろしくない、といさめた人もありましたが、一旦いい出したことは後へは引きませんでした。
清盛は兵士たちにむかって、
「こんど笑い声がしても、おまえたちは矢を放つのは見合せよ。」
とさしとめておきました。
やがて山の空で、いつものようにどっと笑い声がおこりました。清盛はみずから用意していた矢を射放ちました。笑い声は、しばらくしずまったとおもうまもなく、どっどっと笑いかえして、そのおそろしいひびきにあたりの木立ちは波うつようにゆりざわめきました。兵士たちはみな地にひれふしてしまいました中に、清盛一人はったと目を見ひらいて、声のする方を睨まえていました。笑い声はだんだん小さくなって、やがて全くきこえなくなりました。
それから後は、一度もそのふしぎな笑い声を聞くことはありませんでした。さすがに清盛公の御威光だと感心する人もあり、いいや天狗にたぶらかされたのだと、かげであざ笑う人もありました。
またある日のことでした。清盛が奥の間で書物を読んでおりますと、うしろの唐紙が音もなくするするとあきました。そして、大きさ五尺もある髑髏がころがりこんで来ました。髑髏は見るみるうちに、二つに割れ四つに割れ八つに割れ、百あまりの髑髏になったとおもうと、ずらりと一列にならんで、大口をあいてからから笑い出しました。
清盛は少しもあわてることなく読みさしの書物を机において、しずかにすわりなおしました。目を見はって、じっと睨まえていますうちに、髑髏はますます大きな口をあいて笑いながら、その形は霧のようにうすく消えてしまいました。
またある日のことでした。清盛が廊下に立って中庭のけしきをながめていますと、
十四五歳になるかぶろの子どもが一人、清らかな身なりをして通りすぎました。清盛は屋敷のうちに三百人あまりのかぶろを召し使っておりましたが、その一人々々の姿かたちを、ちゃんとわきまえておりました。見たところ、その子どもの姿にはとんと覚えがありません。
清盛はお付きの家来をかえりみて、
「あれはいつから来ておる子どもか。」
とたずねました。
「存じません。今まで見かけぬ子でございます。」
と家来は答えました。
「さようか。一寸呼んでまいれ。」
家来はもう見えなくなったかぶろのあとを追って、中庭を走って行きましたが、やがて顔青ざめて戻ってきました。
「御前、たいへんでございます。あれは天狗でございます。」
「どうしたのじゃ。」
「私があとから走りよって声をかけますと、ふいのことで驚いたものと見えまして、
たちまち背に二枚の羽をあらはし、あやしげな叫び声を放って、裏山の方へ駈け去ってしまいました。」
「たわけたことを申せ。」
と清盛はその場は笑いながしてしまいましたが、何となし気がかりになりますので、
つぎの日のこと、三百人あまりのかぶろを皆庭のうちへ呼び集めました。ずっと見わたしますと、中に一人見なれぬ子どもがまじつています。その顔かたちはきわだってうつくしく、たとえば水中の玉が月の光をあびているようでありました。清盛は黙ってその子どもに目をそそいでいますと、うつくしい目鼻が見るく歪んで、やがて天狗の形になりました。
「あれを捕らえよ。」
というまもなく、小天狗はパッと羽ばたきして裏山の方へ駈け去ってしまいました。
こんなふしぎがしばしば重なりました。
また清盛が秘蔵している望月という名馬がありましたが、ある晩のこと、その馬の尾に鼠が巣をつくり子を産みました。朝うまやからひき出そうとしますと、尾の中であやしい囁声がしますので、それと気がついたのであります。いかにも不可思議のことでありますので、時の博士たちにうらなわせますと、やがて天下の乱れるしるしであると申されました。このうらないは正しくあたって、間もなく源頼朝が伊豆に兵をおこしました。福原の都は一年たらずで、またもとの京都へうつされたのであります。
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