易者(えきしゃ)の子            土田耕平


 むかし、ある片田舎(かたいなか)に、一人の易者(えきしゃ)が住んでいました。易のみちにかけては、よほどの名人であると(うわさ)されていましたが、(つね)に世の(まじ)わりを()け、いかに王侯貴人(おうこうきじん)よりの申し入れであっても、気の向かぬおりは、算木(さんぎ)に手もふれぬという風でありました。
 易者には、一人の子供がありました。大そうかしこくて、幼いときから、易のみちに(こころざ)していましたが、父は、「まだまだ。」とのみいって容易(ようい)に手ほどきをしてくれようとしませんでした。
 子供が十五になったとき、父の易者は、重い病気にかかりました。子供を(まくら)もとによんで、
「わしは、今日死ぬということはかねて承知(しょうち)していた。一人子のおまえに、易のみちをついに(さず)けずにしまったのは、おまえには、別にりっぱな師が与えられてあるからだ。これから三年待つがよい。茶色の衣を着た、年ごろ五十ばかりの総髪(そうはつ)の男が、必ずこの家に立ち寄るであろう。おまえはその男にむかって、こういうのだ。三年前父がおあずけをした千両(せんりょう)の金をおかえし下されと。よいか。男は必ず千両の金を出す。そしてなお、男が金に心もとめぬようであったら、それは、まことに易の名人であるから、(つか)えて師とするがよい。」 こういいのこして、易者は死にました。
 子供は、父のことばを深く(むね)にたたんで、三年という月日のすぎるを待ちました。はたして、三年目の父の命日に、茶色の衣を着た、年ごろ五十ばかりの総髪の男が立ち寄りました。
「旅のものである。湯茶(ゆちゃ)を一ぱい、ふるまってもらいたい。」
 とのことに、子供は、とどろく(むね)をおさえつつ、男に湯茶をすすめ、さて(ひざ)をあらため、
「三年前、父がおあずけをした千両の金子(きんす)をおかえし下され。」
 と()べました。
 総髪の男は、じっと子供のようすを見守っていました。やがて、室の片すみの柱を指さして、
「あそこを打ちなさい。」
 といいました。いわれるままに、柱を打ってみますと、かろくはじきかえすような音。
「柱は、中がうつろである。()()って見なさい。」
 柱を断ち割りますと、中から黄金(おうごん)白銀(はくぎん)(つぶ)が、ざくざくとばかりあふれ出ました。
 男は、金には目もくれず、
「そなたの父上は、易者ではなかつたろうか。」とのたずねに、子供は、(たたみ)に手をついて答えました。
(おお)せのとおりでございます。」
「して、三年前の今日、()くなられるとき、これこれのことばを残されたであろうな。」
「はい、そのとおりでございます。」
 総髪の男は、
「いや、大きに失礼した。きょうははからずも、世を(へだ)てた知己(ちき)()()たことであった。」
 と合釈(えしゃく)して、立ちあがりました。子供は、男の(そで)にとりすがって、
「どうぞ、このわたくしをお(とも)におつれ下さい。」
 とたのみました。男は論なく承知(しょうち)しました。
 ()き父のことばどおり、子供には、りっぱな師が(あた)えられたのであります。

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