浅山一伝斎            土田耕平

      (上)

 渋川伴五郎(しぶかわばんごろう)といえば、むかし柔術(じゅうじゅつ)達人(たつじん)として(みな)さんもよく御存知(ごぞんじ)でしょう。この人がまだ年若い(ころ)のお話でございます。
 伴五郎は武者修業(むしゃしゅぎょう)のため国々を(まわ)って歩きまして、ある(とうげ)へさしかかりました。近道をえらんで木深いところを分けて(まい)りますと、むこうから(はだか)の坊さんが、(こし)に木刀を一本さしたまますたすた歩いて来ます。時は秋のなかばをすぎ()く風もひやひやと身にしみますのに、裸で道中するとは大へんな坊さんもあったものだと思いながら、だんだん近づいて見ますと、それは思いもかけない浅山一伝斎でありました。浅山一伝斎といえばその頃剣道(けんどう)の名人として、名を(とどろ)かしていた人でございます。
叔父(おじ)上いかがなされました。そのお姿は?」
 伴五郎はさっそくこう問いかけました。(一伝斎と伴五郎の父とは武術の上で兄弟のように親しくしていましたので、伴五郎は一伝斎のことを(つね)に叔父と呼んでいたのです。)
 一伝斎は伴五郎の姿を見て、
「やあお前は伴五郎ではないか。意外なところで出逢(であ)ったな。」
となつかしそうに()いました。
「はい、こんなところで叔父上にお目にかかろうとは思わぬことでございます。それにしても叔父上、そのお姿は一体どうしたのでございます。」
「何、今そこでな、山賊(さんぞく)どもにやられたのさ。」
「山賊でございますって?」
「そうだよ。身につけたものはみな置いて行け。さもなくば命がないぞ、と云うのでな。わしもまだ命はおしいから身ぐるみおいて来てしまった。ハハハッ。」
「して叔父上、山賊どもは幾人(いくにん)ほど(おり)りましたか。」
「さようさ、十五六人も()たかな。」
「それは訳ないこと、私がさっそく行って其奴(そやつ)らをひねり殺してしまいます。」
「いやおまえは仲々強そうだ。では(たの)むとしよう。」
 それから一伝斎は、もと来た道へと伴五郎を案内して参りました。山の間道をふみわけて参りますと、むこうの小高い岡のかげに焚火(たきび)をしている賊どもの姿が見受けられました。
「そら、あそこに居るのじゃ。わしの衣も胴巻(どうまき)もそのまま石の上に()いてあるわい。」
「では叔父上、ここでお待ち下さい。私が一寸(ちょっと)行って参ります。」
 伴五郎はこともなげに云って、一人つかつかと賊どもの前へ進んで行きました。賊どもと伴五郎はしばらく(にら)みあって居りましたが、やがて、キャッと(さけ)ぶ声がして、かたわらの木の上から、一人の男がもんどり打って落ちて来ました。と、今まで伴五郎の前に立ちはだかっていた賊どもは、急にうしろを見せてバラバラと逃げ出しました。衣も胴巻もそこへ置きすてたまま。
 伴五郎には何ごとが起こったのかさっぱり分かりませんでした。一伝斎はにこにこ笑いながら、
「いや、おかげで着物にありついた。ありがとうありがたう。しかし、これを見なさい。」
と木から落ちた男を指さしました。男は火縄銃(ひなわじゅう)(にぎ)ったまま死んでいました。その眉間(みけん)の傷は、一伝斎の石つぶてを受けたのであります。
 一伝斎の(うで)まえで賊の十人や二十人取りおさえることは、何の造作(ぞうさ)もないことでした。しかし一伝斎は目敏(めざと)く、木の上から銃を向けている賊の一人を見たのであります。で賊の云うなり着物をはがせて、その身を(まっと)うしました。もしこれが若い伴五郎であったら、その銃さきにあえない最後を()げたでございましょう。伴五郎はようやく気づきました。先刻(さっき)一伝斎が、小賊どものために裸にされたと聞いた時には、叔父はもう年とって弱くなったのかと(うたが)いましたが、今は心から一伝斎がまことの名人なることを感服(かんぷく)いたしました。

      (下)

 むかし剣道の神と仰がれた柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)が、弟子の中山新三郎をつれて東海道を下り、尾張(おわり)鳴海駅(なるみえき)近くまで参りますと、そこに今川義元(よしもと)(はか)があります。今は土垣(つちがき)など(きず)いて墓らしくなっておりますが、そのころはただ石塔(せきとう)が一つ立っているだけで見るかげもないありさまでした。十兵衛も新三郎もねんごろに合掌念仏(がっしょうねんぶつ)しまして、英雄(えいゆう)末路(まつろ)をあわれに思いながら、かたわらの木かげにしばらく休んでおりました。
 そこへまた一人参詣者(さんけいしゃ)(まい)りました。(あか)じみた(ころも)をつけた坊さんで、腰に一本の木刀をさしております。目のくばりと云い身のこなしと云い、これは武芸の達人に(ちが)いないと十兵衛はすぐに見てとりました。
 坊さんは、しばらく墓のまえで(きょう)をあげていましたが、
「これはこれは武者修業者でございますな。」
と云いながら、なつかしそうに十兵衛のそばへ腰をおろしました。やがて二人は(たがい)に名乗りをしましたが、この坊さんが有名な一伝斎でありました。思いがけないところで、名人同士が出逢(であ)ったこととて二人とも大そうな喜びでございました。
 それから二人は、一本手合わせをしようということになりまして、一伝斎は腰の木刀を持ち、十兵衛は手頃(てごろ)の木の枝を折り取って身がまえました。名人同士の試合になりますと、無暗(むやみ)にポンポン打合うものではないそうです。(たがい)にじっと位取りをしたまま身うごき一つしません。やがて、
(まい)った!」
と叫んで一伝斎がとびさがる、と一所に十兵衛も、
「参った!」
と叫んでとびさがりました。
「柳生先生のお手のうち、実もって(おそ)れ入りました。とても(およ)ぶところでありません。」
「いやいや浅山先生のお太刀すじ、私どもの及ぶところではない。」
と互に勝をゆずり合っております。かたわらに見ておりました中山新三郎は、ただ(おどろ)くばかり、どちらが勝ったのかわかりませんでした。
 一伝斎はたずさえて来た瓢箪(ひょうたん)の酒を十兵衛にすすめ、みずからも飲みしながら、互に武芸の話をはじめました。新三郎は一々身にしみて聞いておりましたが、やがて話のすきを見て、
「浅山先生に一寸(ちょっと)おたずねいたします。」
「何かな。」
「先生はずいぶんあちこちとお歩きになっているようでございますから、達人と呼ばれる人たちとお手合わせなすったこともおありでございましょう。」
「それはいく度もあります。」
「ではお(うかが)いいたしますが、京都今出川の吉岡兼法(よしおかけんぽう)先生とは?」
「去年の春試合をしました。」
「で勝負(しょうぶ)はいかがで?」
「わしの負けじゃ。」
「では木曽(きそ)塚原卜伝(つかはらぼくでん)先生とは?」
「二三年まえに立ち合いました。」
「で勝負は?」
「わしの負けじゃ。」
伊東弥五郎(いとうやごろう)先生とは?」
「これはまず以って当代の名人じゃな。」
「ではやっぱり先生のお負けで?」
「そうじゃ。」みな一伝斎の負けだと申しますので、新三郎は顔を赤くして(だま)ってしまいました。
 さて一伝斎と十兵衛は、なごりを()しみつつ西東に別れましたが、道々新三郎は十兵衛にたずねて云いました。
「浅山先生はいずれの試合にもみなお負けになったようですが、実際(じっさい)あまりお強くはないのでしょうか。世間からは名人だとうたわれていますけれど。」
 十兵衛が答えました。
「おまえにはまだ分からんだろう。浅山氏ほどの名人になると、ただ相手の太刀すじを見て満足(まんぞく)するのじゃ。で若い相手に花を持たせて勝をゆずろうとする。先刻(さっき)もこのわしに勝をゆずろうとしたのだ。どうしてなかなか(おそ)るべき太刀(たち)すじであるぞ。」


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