咸陽宮(かんようきゅう)            土田耕平
  

 (えん)の国の太子(たいし)(たん)は、(しん)始皇帝(しこうてい)のために()らえられて、十年あまりの月日を獄屋(ごくや)の中で()ごしました。太子丹は今はもう何の(のぞ)みもなく、ただ故郷(こきょう)の母に一目()いたいと、そのことばかり思いつづけていました。
 太子丹は始皇帝に向かって()いました。
「どうぞ私を燕の国へかえらせて下さい。私の母は大そう年とっていますから、今逢っておかなければ、千生万生逢うことができなくなります。」
 始皇帝はかぶりを()りました。
「だめだめ、おまえを燕へやったら、再びかえって来る気づかいはない。また兵たいを集めてわしに手むかいすることだろう。」
 その(ころ)支那(しな)は国がいくつにも分かれていましたが、その中で秦が、一番強く大きくて、その他の国はみな秦につき(したご)うていました。太子丹は、燕の国を独立させようとして(たたかい)をおこしましたが、(たちま)ち始皇帝のために捕らえられたのであります。
「イエ、私はもうあなたに敵対(てきたい)しようとは(ゆめ)にも思いません。ただただ年老いた母に一目逢うことができれば、私の一生の(ねが)いはそれで()きます。」と太子丹は(なみだ)を流して云いました。
 始皇帝はあざ笑って、
「馬に角が生え(からす)の頭が白くなる時節(じせつ)が来たら、おまえを国へかえしてやろう。それまで待っているさ。」
こう云ったきり、もう太子丹の相手にはなりませんでした。
 太子丹は天をあおぎ地にひれふして、
「願わくは馬に角が生え烏の頭が白くなりまするよう。そして母に逢わせて下さいますよう。」と(いの)りました。すると、その日の夕方、どこからともなく、角の生えた馬があらわれて、始皇帝の御殿にかけこみました。また頭の白い烏が()いこんで来ました。人々が(おどろ)きさわぐ中に、始皇帝の顔はことに青ざめて見えました。
 次の日太子丹は、獄屋を出て本国へかへることを(ゆる)されました。
「わしは国王である。一旦(いったん)口にした言葉を反故(ほご)にはしない。烏頭馬角(うとうばかく)の変があらわれたのだから、約束どおりおまえを母に逢わせてやろう。しかし、すぐに(もど)ってくるのだよ。」と始皇帝が云いました。
「あなたが約束を守って下された以上、私はまた私の言葉をかたく守ります。決してお(あん)じなさらぬよう。」と太子丹が答えました。
 秦の都から燕の国までは、大そう道のりがあります。けれど太子丹の心はなつかしい母のもとへ飛んでいました。夜といわず昼といわず歩きつづけて、早くも()の国へ入りました。そこには大きな河が流れていて楚国の橋と呼ぶりっぱな橋がかかつています。この橋をわたれば、いよいよ燕の国に近づきます。太子丹は何心なくその橋をわたりかけて中程(なかほど)まで行った時、橋は(たちま)ち真二つに()けて太子丹のからだは、うずまく川波の上にふり落とされました。
 これは、始皇帝が太子丹を()きものにしようとして、多くの家来たちにいいつけ先まわりをさせて、この楚国の橋を()めば落ちこむ作りにしておいたのであります。
 太子丹は橋が裂けるとともに気絶(きぜつ)してしまいました。やがて、息を()きかえして見ますと、川底に(しず)んだと思った自分のからだは、波の上にかろがろ(よこ)たわっています。ふしぎなことに思って立ちあがって見ますと、川一面に大小いくらとも数知れぬ(かめ)どもが甲をならべているのでありました。太子丹は亀の甲を踏んで(なん)なく向こう岸へ渡り着くことができました。
 前の烏頭馬角の変といい、またこの亀の奇瑞(きずい)といい、太子丹の孝心(こうしん)を神があわれみ給うたのであると、時の人々は云い合いました。

 太子丹は長年の願いが(かの)うて、母に逢うことができました。そして、もう再び秦の都へ戻ろうとはしませんでした。楚国の橋で自分を殺そうとたくらんだ始皇帝の心を思うと、何でまた秦の都へ戻られましょう。太子丹は、(おとろ)えた燕の国を是非(ぜひ)とも自分の力で盛りかえさねばならぬと決心しました。
 その時燕の国には、荊軻(けいか)という智勇兼備(ちゆうけんび)の士がありました。荊軻は、太子丹が燕にかえって来たことを知って、すぐに訪ねて行きました。二人はかたく主従(しゅじゅう)の約束をむすんで、密々(みつみつ)にはかりごとをめぐらしました。けれども、その頃秦の国の強さは大きな山のようなものでありまして、これを正面から()り動かすことはとてもできません。太子丹と荊軻は、しずかに時の来るのを待っていました。
 とうとうその時が来ました。それは、秦の国の士で樊於期(はんおき)という人が、始皇帝の(いか)りに()れて親兄弟みな(なく)されて燕の国へ逃げて来ましたのを、始皇帝はなはも樊於期を捕らえようとして、―― 樊於期の首と燕の国の地図を持って来た者には金五百(きん)を与えるであろう――という宣旨(せんし)を四方へ下しました。始皇帝は樊於期を殺し、かつ燕の国を攻め亡そうという下心があったのです。
 始皇帝の宣旨が下ると、荊軻は太子丹を訪ねて数日相談をした後、その足ですぐに樊於期を訪ねました。
「あなたは始皇帝が宣旨を下したことを知っていますか。」と荊軻が云いました。
「よく知っています。」と樊於期が答えました。
「どうです。あなたの首を私に()しませんか。」
「私の首を借りてどうなさる。あなたは五百斤が()しいのですか。」
「高の知れた金五百斤、何にいたしましょう。私の欲しいのは始皇帝の首です。」
 樊於期は荊軻の顔をじっと見つめていましたが、
「始皇帝は、私にとっては(にく)んでも憎み足らぬ(かたき)です。あなたがまことに始皇帝を()ちとって下さるなら、私の首をお貸しするのは(ちり)あくたよりも(やす)いことです。」
 こう云って、(こし)の刀を()いて(みずか)らその首を()ねて死にました。
 荊軻は樊於期の首を持ちかえり、太子丹から燕の地国を()い受け、この二品を(たずさ)えて秦の都へと旅立ちました。その時、太子丹は荊軻を見送って、
「秦の咸陽宮(かんようきゅう)はずいぶん大きなものですぞ。」と云いました。咸陽宮というのは秦の都の名まえであります。荊軻は太子丹のことばを聞いてニッコリしました。いくら大きな御殿であろうとそれに(おどろ)く荊軻ではないという意味を示したのです。
 荊軻は、秦の都へ行く道案内として、秦舞陽(しんぶよう)といふ士をやといました。秦舞陽はもと秦の国の人でしたが、ある事から始皇帝をひどく(うら)んでいましたので、自分からすすんで荊軻の案内者になりました。さて二人は旅をつづけて、だんだんと秦の国深く入って行きました。
 ある夜のこと、山深い村里に宿をとりましたところ、(となり)の家に思いがけなく管絃(かんげん)の音が聞こえました。荊軻は大そうめずらしいことに思い、その音によって(うらな)いをして見ました。すると、(てき)は水である、味方は火である、お前たちの(のぞ)みを()げることはむずかしい、という占いが出ました。荊軻はそのことを秦舞陽に話しますと、秦舞陽は、「さような占いはどうあろうとこの太刀さえあれば。」
 と云って腰の刀を()(はな)って見せました。
「お前にそれだけの勇気があればよい。」と軻軻は秦舞陽を従えて、いよいよ秦の都へと乗りこんで行きました。

 秦の都、咸陽宮はそのまわりが一万八千三百八十里あると云われていました。これは人の云いつたえであって勿論(もちろん)たしかの数ではありませんが、()(かく)人目を(おどろ)かすほど大きなものであったことは想像(そうぞう)できます。内裏(だいり)はその中央に地を三里高く(きず)きあげて作り、長生(ちょうせいでん)殿、不老門(ふろうもん)などという立派(りっぱ)な建物があり、眞珠(しんじゅ)瑠璃(るり)の砂を地にしきつめてありました。始皇帝が(つね)御幸(みゆき)して政治を行う御殿は阿房宮(あぼうきゅう)と云って、東西九町南北五町高さが三十六丈、瑠璃の(かわら)をふき金銀の(とびら)をたて、まわりには鉄の築地(ついじ)をいかめしくめぐらせてありました。
 荊軻は燕を立つ時、太子丹の云った言葉(ことば)を思い出しました。そして、今はもう微笑(ほほえ)心地(ここち)はしませんでした。荊軻は、始皇帝の宣旨によって樊於期の首と燕の地図を持参した(よし)を申し入れました。始皇帝が人をもって受け取ろうと云うのを、大切な品であるからお目にかかって手渡したい、と云いはりました。そして、ようやく御殿へ通ることをゆるされましたが、階段(かいだん)をのぼる時二人は(こし)の刀をはずすようにと()げられました。荊軻はこうした時の用意に、地図をおさめた(ひつ)の中へ刃物を一ふりひそめておきましたから、腰の刀がなくなっても(おそ)るる色は少しもありませんでした。が秦舞陽は、ただ一つの武器(ぶき)を取りあげられて、鳥が飛ぶ羽を失ったような心持ちになりました。
 荊軻は地図をおさめた櫃をもって先に立ちました。秦舞陽は樊於期の首をおさめた櫃をもって後へつづきました。御殿の中には槍鋒(やりほこ)をささげた軍兵(ぐんぴょう)たちが(いく)百幾千とも知れず立ちならんでおります。そして(はる)か向こうに一だん高い(ぎょく)の座に始皇帝がひかえております。二人はしずかに軍兵たちの間をすすんで、始皇帝の前にひざまづきました。その時秦舞陽はあまりの恐ろしさに、櫃をもった手をわなわなとふるわせました。
「どうしたのか。」と始皇帝が問いました。
「この男はもともと田舎(いなか)育ちでございますから、あまりにいかめしい御殿のありさまにおびえたものと見えます。決してあやしきものではございません。」と荊軻がかしこまって答えました。
 始皇帝はまず秦舞陽の首をあらためました。次に地図をあらためようとして、櫃の蓋を取って見ますと、底に氷のような刃物が横たわっていましたので、これはと(おどろ)いて立ちあがりました。荊軻はすばやく始皇帝の(そで)(おさ)えとめ、片手に刃物を取ってふりかざしました。
 このありさまに、御殿の中に()ち満ちた軍兵たちは一時にどよめき立ちましたが、さてどうすることもできません。軍兵たちの足が一足荊軻に近づいた時は、荊輌のもつ刃物は、早くも始皇帝の(むね)をつらぬくでありましょう。みなみな眼をいからせ手に汗をにぎったまま立ちすくんでしまいました。
 荊軻は刃物をふりかざしたまま、始皇帝に向つて、じぶんたちは五百斤の金がほしいのではない、皇帝の首がほしくて来たのだということをことば短かに()げました。始皇帝はそれを聞いて、
「しばらく待て、(きさき)(こと)を今一度聞いておこう。」と云いました。
 荊軻はなおも刃物をふりかざしたまま、
「早くせい。」と云いました。
 始皇帝は三千人の后を持っていましたが、その中に花陽(かよう)夫人と云ってならびなき琴の名人がありました。花陽夫人はただちに始皇帝のかたわらへ呼び出されました。こういう大変の場合でありますが、もとより心のしっかりした夫人でありましたから、少しも取り(みだ)すこともなく、(みかど)のうしろにかしこまって琴を()きはじめました。
 花陽夫人の琴を聞く時は、飛ぶ鳥も地に落ち草木もゆるぐと云われました。まして今を限りと心をこめて弾いたのでありますから、立ちならぶ軍兵たちもみな頭をたれてこれに聞きほれ、さすがの荊軻もうっとりとして(われ)を失うばかりになりました。その時花陽夫人は一だんと曲をひきしめて、
 ――七尺(しちしゃく)屏風(びょうぶ)は高くとも、おどらばなどか()えざらん。一條(いちじょう)()こくはつよくとも   引かばなどか()えざらむ――
 とうたいました。
 荊軻にはその歌の意味が分かりませんでしたが、始皇帝はすぐにそれと(さと)りましたから、力をこめて荊軻に押さえられている袖をひきちぎり、うしろに立てまわしてある高い屏風を一飛びにとびこえて、(どう)の柱のかげへ逃げかくれました。
「おのれ!」と云って荊軻は、ふりかざした刃物を投げつけました。刃物はひらめき飛んで銅の柱のまん中へ()き立ち、始皇帝の身は九死に一生をまぬかれました。荊軻はつづいて投げつける刃物を持ちあわせなかったので、くやしくも千載(せんざい)のうらみをそこに残しました。
 荊軻が()られ秦舞陽が斬られ、やがて燕の太子丹も始皇帝のために(ほろぼ)されてしまいました。


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