マイダス王の耳 土田耕平
ギリシャのむかし話。
マイダス王がある日のこと、お城の前の広場を散歩しておりますと、見知りの農夫たちが五六人、高声にののしりながら一人の老人をひきたててまいりました。その老人がお酒に酔って何か乱暴をはたらいたのだというのです。農夫たちのいうとおり、老人は大そう酔っていましたが、その顔形がなみなみでなく、眉間から光のさしているのを、マイダス王は見てとりました。マイダス王は農夫たちをなだめて、老人をひきとりました。そしてお城のうちにつれこみ、ていねいに介抱して、問いたずねましたところ、その老人はバッカスのお父さんだとわかりました。バッカスというのは、有名な酒の神さまであります。
マイダス王は、これは善いことをした、きっと大きな報いがあるに違いないと思いました。さてつぎの日みずから老人を送りとどけて、バッカスのところへまいりました。バッカスは大そう喜びました。マイダス王に向つて、何でもほしいものをいってくれ、返礼をしたいから、と申しました。
人間の慾というものは限りのないもので、上には上をも望みます。マイダス王は人々の上に立って富みさかえている身でありながら、やはり満足ということを知りませんでした。酒の神のバッカスからお酒の一ぱいもいただいてかえればよいのに、度はずれた願いを申し出ました。
「この私の手にさわったものが何もかも黄金になったら、どんなにかうれしい事だろうと思います。どうでしょう。この願いを叶えて下さいませんか。」
バッカスはマイダス王のことばをきいて、
「それはわけないことだ。しかしもう少し気のきいた願いをたてた方がよくはないか。あなたの願いは、あなたを幸にしないだろう。」
といいました。
けれどマイダス王は、一たんいい出した願いをひるがえそうとしませんので、バッカスはその願いを叶えてやりました。マイダス王はバッカスにお礼をいって、お城へかえりましたが、その道々で、もはや奇蹟が行われました。何げなく道ばたの樫の木の枝に手をふれますと、忽ちその葉も幹も黄金色にかがやきました。ゆすってみると、カラカラと葉と葉のふれあう音は、まがいもなく金のひびきでありました。それからまた、どんぐりの木に手をふれると、その実の一つひとつが黄金の粒になって、パラパラ地上にこぼれました。拾い初めてみましたが、あまりたくさんなのでとてもひろいつくせませんでした。
「まあよいわ。後で家来をつかわそう。」
マイダス王はにこにこしながらお城の門のところまでまいりました。すると愛犬の狆が尾をふりたてて走ってきましたので、頭をなでようとして、手がふれると一所に、狆のからだは黄金に変わってしまいました。黄金の狆はなくことも走ることもできず、立ちすくんだままでした。
「まあよいわ、床のまの据えものにでもしよう。」
王は黄金の狆を抱きかかえてお城の中へ入って行きました。
黄金の狆をかかえてかえってきた王を見て、お城の中の人々はみなおどろきました。そして、此ふしぎな魔術は一体誰からさずけられたのかと口々にたずねました。王は首をふって、
「待て待て、夕食の卓でもっともっとおどろかしてやるぞ。」
と云いました。マイダス王は黄金の狆を床のまにすえてしまうと、両の手をそっとかくしの中へさし入れました。
「見ていろ、今にこのお城は黄金づくめになるから。」
やがて夕食の時刻になりますと、王は一同のものをみな食堂にあつめました。ふだんは見かえりもせぬしもべ男まで呼んで、一々席をあたえました。なるたけ多くのものに、じぶんが今日バッカスから与えられた秘法を示して、アッと云わせようという心組みだったのです。王は一同の顔がそろったのを見て、その両手をかくしの中から出しました。まず食台に手がさわりますと、食台はたちまち黄金色にかがやきました。立ちあがって燭台の笠に手をふれますと、これも又黄金に変わり、ともった灯の色は夕焼けの空のようにうつくしくなりました。それから王は、室の柱を、天井を、床を、つぎつぎに黄金に変じてしまいました。
「さあ皆のもの、えんりょなく好きなものを食べるがよい。きょうから私の家来には、一人も貧しいものはないはずじゃ。」
こう云いながら王は、盃をとりあげてみておどろきました。なみなみと酌いであるお酒はすっかり金に変わってしまい、とても飲めるはずのものでありません。こんどはパンに手をふれますと、パンもまたかたい金に変わってしまいました。
「これはいかん。」
と王は云いました。仕方ないので、おつきのものの手をかりて、一つ一つ食物を口へはこんでもらいました。りっぱな髯の王さまが、まるで赤ん坊のようなかっこうをするのですから、大へんはずかしかったに違いありません。
やつと食事がおわって、王は隣の席の大臣に話しかけようとしてその肩に手がさわりますと、大臣のからだは頭から足のさきまで黄金に変わってしまいました。ものをいうこともできなければ、身うごきさえできなくなりました。
これを見て一同のものは、すっかり恐れてしまいました。もしも王の手にさわろうものなら、生きながら金の像になってしまうのです。みんな恐るおそる、一人のこらず食堂を逃げ出してしまいました。マイダス王はその時はじめて、じぶんの願いがおろかしかったことをさとりました。きゅうに悲しくなってオイオイ声をあげて泣き出しました。その泣き声がバッカスの耳にきこえましたので、バッカスは王の前に姿をあらわしました。
「わしはもともとあなたの親切にむくいようとして、願いを叶えてあげたのだ。その結果あなたが不幸になるようでは、わしの気がすまぬ。パクトラス川の源へ行ってその両の手をきれいに洗いきよめるがよい。そうすればあなたの手はもとの手にかえって何のふしぎも起こらなくなる。」
こういって教えてくれました。マイダス王はバッカスの慈悲を謝しました。さっそくパクトラス川の源へ行って、両手をあらいきよめ、さてかたわらの木の枝にさわってみました。もはや何の奇蹟もおこりませんでした。揺すってみても、葉のさらさらとすれあう音は、あたりまえの、何のふしぎない木の葉の音でした。しかしマイダス王は、そのあたりまえの音を、どんなにかうれしく聞いたことでしょう。さきに黄金の木の葉が鳴る音をきいたときのよろこびも、これにはとても及びませんでした。
パクトラス川の源には、今でも砂金を産しますが、これはマイダス王の手がふれたためだといいつたえられています。
マイダス王は、その後黄金などというものは見るさえ心地がわるくなる、もうこりごりだといいました。黄金ばかりでなく、世の人々のほしがる宝石のたぐいや、うつくしい着物や、その他富も名声も見むきもせぬようになりました。そのかわり、マイダス王は森や野原が好きになりました。小鳥の声に耳をかたむけたり、青々とすんだ空をながめたりしていますと、何ともいえぬよい心持ちになりますので、今までどうしてこのたのしみに気がつかなかったかとおもうのでありました。
マイダス王はパンとよぶ神さまとしたしくなりました。パンは牧畜をつかさどる神さまで、いつも広い野原に住んでおり、大そう笛が上手でありましたが、いくら上手に吹いても、誰もききわけてくれる人がないのではりあいなくおもっていました。そこへマイダス王がきて、じぶんの笛をきいてくれるようになったので、大そうよろこびました。王はかねがねお城のうちに、多くの楽人たちをかかえており、その中には名手も少くはなかったのですが、このパンの神の吹きならす笛のしらべには、とても及びもつかぬことを知りました。
ある日のこと、パンの神はマイダス王に向かって、
「王や、わしはあのアポローと音楽の競技をしてみようとおもうのだが、あなたはどう考えるかな。」
といいました。
「アポローとは誰ですか。」
マイダス王は問いかえしました。
「アポローは日の神なんだ。そして琴の名人だという評判だ。けれどわしの笛は、アポローの琴に負けはしないつもりだ。」
パンの神は笛をふいては上手でしたが、神さまとしてそれほど気高い心を持っていませんでした。で日の神さまと一番腕くらべをしようなどと、途方もない望みをおこしたのであります。
「いえ、そんなことはお止めなさい。」とマイダス王は止めておけばよいのに、かえって、「おやりなさい。日の神を打ち負かして、あなたの笛が世界一上手だということを知らせなさい。」
こんな風にいいすすめました。森や野にしたしむようになったものの、やはり人間の持つきそい心が、マイダス王の頭の中にのこっていたものと見えます。
パンの神はアポローにむかって競技を申しこみました。アポローは承知しました。
そこで二人の神さまは、山の神トモラスを審判者として競技をはじめました。まずパンの神がさきに、その笛を吹きならしましたが、さすがになみなみならぬ腕まえなので、笛のしらべがととのうにつれて、森の小鳥たちはすっかり声をひそめてしまいました。しらべがすんだとき、パチパチと拍手するものがありました。それはマイダス王でした。
つぎにアポローが、その竪琴をとりあげてかきならしました。すると森の小鳥たちは一せいに声をそろえて、竪琴のしらべにあわせてうたいました。そればかりか、木立、草の葉まで鳴りそよぎ、山、川、滝のおつる音までが一せいに、日の神のかきならす琴のしらべに曲をあわせました。しらべが終わると、審判者のトモラスが拍手しました。で競技はアポローの勝ちとなりました。パンの神はじぶんのまけたことがよくわかりましたので、笛を袖の下へかくして、しょんぼり荒野の住み家へかえってしまいました。マイダス王は、一人のこって、
「これは不公平だ。パンの神が負けるというはずはない。パンの神は世界一の名手だ。」
とやっきになっていいました。
「わしの審判がおまえには承知できないのか。」
「誰が何といっても承知できない。このわしの耳が承知できない。」
マイダス王がかたくなに云いはりますので、トモラスは、
「こやつ、何とたわけた耳だ。」
といいながら、マイダス王の耳をちょいとひっぱりました。そして、さっさと山の上の住み家へかえってしまいました。
「不公平な審判だ。誰が何といおうと、このわしの耳が承知できない。」
マイダス王はぶつぶつ口小言をいいながら、もはや野のあそびもいやになりましたので、お城の方へかえってまいりました。途中池のはたをとおりすぎて、ふと水のおもてをのぞいてみてびっくりしました。水にうつった王の耳は、いつのまにか驢馬の耳のように長くなって、毛がもじゃもじゃ生えていました。ひっぱってみたり、おしつけてみたり、さんざんいじりまわしたけれど、どうしてももとの形にはなりません。
王は溜息をつきました。これまでじぶんのしてきたことが、急にはずかしくなりました。
もう何とも仕方ありませんので、頭巾をまぶかにかぶって、その中へ長い耳をおしこんで、ひとにわからぬようにこっそりお城へかえりました。それから後、食事のときもお風呂へ入るときも、決して頭巾をぬぎませんでした。
「王さま、なぜ頭巾をおとりになりませんか。」
とおつきの人々がたずねますと、
「ああうるさいな。わしはもう何もききとうない。耳なんぞ消えてなくなれだ。」
といいました。
マイダス王は夜昼頭巾をかぶりとおしていて、決してその耳を人に見せませんでしたが、ただ一つ困るのは散髪屋でした。散髪するときにはどうしても頭巾をぬがねばなりません。
王は散髪屋にかたく口どめしました。
「わしの耳が長いことをひとにしゃべってはならんぞ。よいか。もししゃべったら、
そちの首はないぞ。」
散髪屋は正直な男でしたから、マイダス王のいいつけをよくまもりました。すると、一月たち二月たちするうちに、そのお腹が大そうふくれてきて、いかにも苦しそうにみえました。
「どうしたのじゃ。」
とたずねますと、
「王さま、私はもはや我慢がなりません。王さまのお耳の長いことを、誰にもいうまいいうまいとこらえていますうちに、とうとうこんなにお腹がふくれてしまいました。」
マイダス王は散髪屋のいうのをきいて、
「それは気の毒な次第じゃ。といってうかつにそちにしゃべられては、わしの恥はあけひろげじゃ。それではまことに迷惑する。ウムよいことがあるわ。こうせい。鍬をもって原っぱへ行け。そうして大きな穴を掘って、穴の中でそっとしゃべるのだ。よいか。誰にも知れぬようにな。」
といいました。
散髪屋はかしこまって、王の命ずるままに鍬をかついで原っぱへ行きました。誰も見ていないところで大きな穴を掘り、さて穴の中へ入って、
長耳、毛耳
驢馬の耳かとおもったら
マイダス王の阿呆耳
ワッハッハッ
ワッハッハッ
とおもう存分の声を出して笑いました。散髪屋のふくれたお腹は、もとどおりひっこんでしまいました。それから、穴をすっかりうずめて、散髪屋は立ち去ってしまいました。
まもなくその穴のあとへ、葭が生えてきました。葭はだんだんしげりました。そして風のふくたびに、
長耳、毛耳
驢馬の耳かとおもったら……
と散髪屋のしゃべったとおりのことばをささやくようになりました。そして千年万年たった今でも、ささやきつづけています。沼や湖の岸へ行ったとき、みなさん耳を傾けてごらんなさい。
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