お母さんの思い出            土田耕平

 私が十一か二の年の、冬の夜だったとおぼえている。お父さんは役所の宿直番(しゅくちょくばん)で、私はお母さんと二人こたつにさしむかいにあたっていた。せどの丸木川の水も、氷りつめて、しんしんと寒さが身にしみるようだ。お母さんはぬいものをしている。私は本を読みふけっている。二人ともだまりこくって、だいぶ夜もふけたころだった。
孝一(こういち)や。」 とお母さんが呼んだ。私は本が面白(おもしろ)くて、つりこまれていたので、
「ええ。」 とからへんじをしたままでいると、
「孝一や。」 と、またお母さんの声がする。私は読みさしの本を置いて、顔をあげた。お母さんは、ぽっとほほを赤らめて、(これはお母さんのいつものくせだった)
「あのね、お前じゅくし(・・・・)を買って来ないかえ。」 という。
「ええ?」 と私は聞きかえした。おかねをいただいて買いぐいをしたことなど、一度だってなかった。まして、お母さんから、そんなことをいい出したことなどあろうはずがない。
 私はなんだかうそのような気がして、ぼんやりお母さんの顔を見ていると、
「あのね、じゅくしを一つ買ってきておくれよ。おいしいだろうと思うから。」 とお母さんは、顔を赤くしてまたいった。
 かりかりと氷った冬のじゅくしほど、身にしみておいしいものはない。私はいなかの親類(しんるい)で食べたことがいくどもあるので、お母さんにいわれると、あのざっくりと、()にさわってくる味がたまらなくなってきた。
「ああ、買って来るよ。」 と答えて、こたつからはねおきた。お母さんは、たんすの引出しから、五銭玉(ごせんだま)を一つ出して、
「これで、大きなのを一つ買っておいで。」 といった。
 私の家は、細いろじの(おく)にあって、門灯(もんとう)一つついているきりで、うす暗いところだ。そこから二三(ちょう)ゆくと、大通りがひらけて、まぶしいほど明るい。私は五銭玉をしっかりにぎった手を、ふところへ入れてかけて行った。ほっぺたがちぎれるようにつめたい。
 大通りへ出たすじかいに、くだもの屋のあることは、よく知っていたけれど、ふだん買いつけたことなんかないので、なんといってよいか、すぐ言葉(ことば)が出ない。私はだまって店さきにつっ立っていた。すると店のじいさんから、
「ぼっちゃん、なんですい。」 といわれて、私は少しまごついてしまって、
「か、かき。」 といった。店さきには、みかんやバナナが山のようにつんであって、かきなんか見えなかった。
「はい、これが二銭、この大きい方が五銭。」 とじいさんの指さす方を見ると、店のすみの方に、たんとはなかったけれど、うす皮のまっかにじゅくしたかきが山もりにしてあった。
 私は大きい五銭のを一つえりとって、氷のように冷たいやつを、両手でにぎりしめて、かけてかえった。
 お母さんは、こたつの上にほうちょう(・・・・・)おこがし(・・・・)を、用意していた。おこがしはかきへつけて食べるのだ。
 お母さんは、かきを二つに切って、大きいぶんを私の前において、
「さあ、お食べよ。」 といって、小さい方を自分で小口に食べながら、
「ああ、おいしいわね。」 といった笑顔(えがお)が、電灯のかんかんしている光にうつって、うつくしく見えた。私もほんとにおいしかった。けれど、なんともいわなかった。じゅくしを食べてしまうと、すぐに読みさしの本をひらき、お母さんはぬいものをはじめた。それから後のことは、おぼえていない。もう二十年余りも昔のことだから。
 お母さんは今は生きてはいない。そして、一生不幸(ふこう)に過ぎた人だということを今になって、私はよく知っている。だからあの時、(おさな)い私と、一つのじゅくしを半分わけにして、いかにも、おいしそうにして食べたお母さんの顔を思い出すと、何だか悲しくなってならない。半分わけにした大きい方を、お母さんにあげればよかったに、などと考えるのである。

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