海坊主の話 土田耕平
私は子どもの時分のことを思いおこす時、なによりもさきにひげのじいのすがたが目に浮かんで来ます。ふさふさした長いひげをはやしていましたところから、私は「ひげのじい、ひげのじい」 と呼びなれましたが、今考えてみますと、じいはそのころまだ五十にはなっていなかったはずであります。その長いひげと眠っているような細い目としわのよったひたいとが、じいをいかにも年よりらしく見せました。
ひげのじいは、朝に夕に私の家へたずねて来ました。庭むきのえんに腰をかけて、長いきせるでたばこをふかしながら、家の祖母と話しこんでいるじいの顔つきは、いつ見てもたのしそうでした。じいは大口をあいてからからと笑うので、そのふさふさしたひげが笑うたびに波立ちます。いつも見なれている顔だけれど、私はふしぎなものを見るようにそのひげを見つめました。じいは祖母との話がとぎれると、庭さきでひとり土いじりしている私の方へ向きなおって、とぼけた顔つきで、
「弘法大師、どうじゃな。」
などといいかけます。私の名前が弘蔵といったところから、じいはたわむれて私を弘法大師と呼びました。私がどろ手のまま、とびつくのもかまわず、じいは私をしっかりとだきかかえて、その長いひげを顔におしつけます。くすぐったくなって身をもがくけれど、なかなか離してくれません。そこで私はどろ手でじいのひげをおしのけてやけます。
「コレ、そのようなきたないことをすると、もうこれきり、ひげのじいさまは来ませんぞ。」
とかたわらの祖母がいいますけれど、それはただ口のさきのことで、腹の中ではなんとも思っていないようです。それが私にもわかりますので、いよいよじいに向かってわがままをします。じいは又私のわがままをそそのかして、かえって喜んでいるというふうでした。それで門口から入って来る時は、だれにあいさつするよりもさきに「弘坊いたかな。」
といってにこにこしています。ひげのじいが来ると、家の中が急にあかるくなるように思われました。私の家は、父が早くなくなって、祖母と母と三人ぐらしでしたが、母もこのひげのじいをすいていました。恐らくだれにしても、ひげのじいをすかぬ人はなかったでしょう。
私はまた祖母につれられて、つねづねひげのじいの家にあそびに行きました。私の家は、村の南はずれ、じいの家は北はずれでしたが、山の中の小さい村のことゆえ、道のりは四五町にすぎません。草ぶき屋の間の石ころ道を、祖母に手をひかれて行きしました。ひげのじいは、物おき小屋のような小さな家にただひとり住んでいました。戸をあけて入ると、土間につづいてせまい室が一つあるだけでした。室のすみには炉が切ってあり、正面の壁にあみだ様の画像がかけてあります。その画像の前には、いつも香のけむりがうずまいていました。
じいは、あみだ様の前に坐って、お経をあげていることがよくありました。そんな時は、祖母と私は、炉のそばに静かにして、お経のおわるのを待ちました。じいに向かってはなんのえんりょもなかった私でしたが、お経をあげている時のじいは、ふだんのじいとはすっかり変わった人のように思われて、しずかな読み声がぞくぞくと身にしみました。お経をあげてしまって、こちらへむきなおったじいは、たちまち、にこにこ顔になって、
「弘法大師のお出ましかな。」
そして、あみだ様にそなえてあった菓子の包みは、じいの手から私の手に渡るのでした。わたしは炉のはたであまいお菓子を食べながら、じいと祖母との話をきくのがたのしみでありました。大人どうしの話はきいていてさっぱりおもしろくないものですが、じいと祖母との話は、なにかしら幼い私の心を引きつけるものがありました。ひげのじいは、まだ年の若いころ、この村を出て、あちこちでいろいろの仕事をしたそうです。深い山の中で木を切ってくらしたこともあれば鉱山工夫をしたこともあり、また船乗りをしたこともあると聞きました。それらの話が、時々祖母との話にまじるのです。炉の火が赤々ともえるのを三人してうちかこんで日が暮れたのも知らずにいることがよくありました。
じいの家のうらには、くりの木がいく本もあって、秋になるとぽたぽたと実が落ちます。炉のはたにいると、その音が耳につきます。私は、戸の外へかけ出して、草の中にころがっている実をひろいあつめます。それを持ちかえってだまってじいの手に渡すと、じいは一つ一つ炉の火で焼いてくれるのでした。ふっくらしたやきぐりの味は、なんともいえずおいしいものであります。
「寺の小僧さん、くりをやくとて、火がとんで、あッつッつッちッぽッぽ。みんなきて、もんでくれ、あんまりもんだら、もみすぎて、だんごを三つもみでいた。」
これは祖母のうたです。祖母は小声でこのうたをよく歌ってくれました。ひげのじいは、ふだんかるぐちをきいて、人を笑わせましたが、うたを歌うたことはおそらく一度もありませんでした。
日がくれて、祖母が家へかえった後、私はなおじいの家にいのこることがありました。つりランプの下でじいといっしょに、あたたかいいもがゆをいただいていると、山でなくむじなの声が時々きこえます。
「暗くなって、むじなもさみしかろうな。」
とじいがひとりごとのようにいいます。山でただ一ぴきないているむじなの姿を思い浮べるとほんとにさみしくなります。そしてじいと二人、同じ家の中で、火にあたっている自分はしあわせだと思われました。
私は、ひげのじいが若いころ見聞きしたという話をいろいろ聞きました。その中でいちばんおもしろいと思ったのは海坊主の話です。気味のわるい話でしたが、その気味のわるいところが、かえっておもしろくて、私はじいにせがんでは、その海坊主の話をいくどもくりかえしてもらいました。海坊主の話というのはこうなのです。
、ひげのじいは、まだ二十代の若いころ、――(その時分はまだひげはつくっていなかったと、じいはいいます。)――北の海で漁師をしていたことがありました。毎朝早く舟をこぎ出して、一日海の上で働いて、日ぐれになってからかえるのですが、時によると海の上に三日も四日もいつづけることがあるそうです。舟の中で取りたての魚をたべるほどうまいものはないとじいがいいますので、それでは味がなかろうと聞きますと、海の水をつけるとちょうどいい塩けになるという返事でした。私は、山の中にそだちましたので、そのころまだ海を見たことがありません。だから海の話はなによりもおもしろくおもいましたが、ほんとうに海というものはどんなものだか想像ができませんでした。たとえもなく大きなもの、うつくしいものとばかり思っていました。竜巻のおそろしさ、潮流を舟で横ぎる時の苦労さ、海で見る月夜のうつくしさ、いろいろの話をじいから聞いたものですが、今それらの話を一つひとつしていることはできません。海坊主の話だけを書くことにしましょう。
ある年の秋、雨のそぼそぼ降る日にひげのじいは、なかまの漁師たち七、八人と一そうの小舟に乗って沖へこぎ出しました。雨のふる日は海はたいていしずかなものだそうです。そのかわりどっちを見ても、なんにも見えない、灰色の幕にすっかり包まれてしまって、ただしんしんとさびしい音が耳につくばかり。漁師にとっては海が自分の家のようなものだけれど、雨のふる日はなんとなし底気味のわるいものだと、じいはいいました。
さてその日はそぼそぼ雨が一日ふりつづいて夕方になりました。思わしい獲物もないので少し時間は早いけれどひきあげることにして皆々ろを取りなおしました。そしてエイホイとかけ声を出してこぎはじめました。といつの間にどこからきたものか、大きなほまえ船が、行く手をさえぎっているというのです。しばらくろの手をやめてほまえ船をやりすごそうとしましたが、そこへとまったきり動こうともしません。じいたちの舟はろの向きをかえて、よけて行こうとしました。すると、ほまえ船は、スウーッと音もなく動き出して、また行く手をさえぎってしまいました。ろをやめてやりすごそうとしますと、そこへとまってしまいます。
こちらからよけて行こうとすると、スウーッと動いて、行く手をさえぎります。そういうことが二度三度つづきましたので、ひげのじいはじめ漁師なかまはみんな怒ってしまいました。子どものあそびではあるまいし、いたずらもいいかげんにするがいい、というので、ほまえ船に向かって、口々にののしり出しました。ほまえ船の甲板には、十四、五人の人が見えましたが、だれひとりこちらをふり向こうともしません。なにかいそがしそうにあちこちと歩きまわっています。その時じいはきっと目をすえて見ますと、ほまえ船の人々はたしかに人のかたちはしていますが、ぼんやりと影のように、とりとめのないところがあるというのです。なお気をつけて見ますと、ほまえ船そのものも、影のようにぼんやりとしていて、たしかのところがありません。夕方のことではあり、雨がそぼそぼしていますので、はじめはそれと気づきませんでしたが、よく見るといかにも怪しげな船であります。
「オイ、しっかりしろ」
といって、じいは、皆のものをふりかえって見ますと、その時はだれも気がついたと見えて、ほまえ船を見あげてあっけにとられた顔をしています。
「どうしよう。」 と皆がいいますので、
「なに、かまうことはない、やっつけろ。」
とじいはいいました。(その時じいは一番ろを取っていたということです。)
そこで皆手に手にろをにぎりなおして、どうともなれという気で、そのほまえ船――幽霊船の胴中をめがけて、さっとこちらの小舟を突きすすめました。あわや衝突とおもうとき、ほまえ船の姿は消えてしまいました。どちらを見ても雨霧がけぶっているばかりで、もうなにも見えませんでした。
ここまで話してきて、じいは、私の手をとって、
「どうじゃな、弘坊。気味がわるかろう。」
といいながら、にこにこしていますので、
「それが海坊主か。」 と聞きますと、
「いやいや。ほんとの海坊主はこれからじゃ。」
といって、じいは話しつづけました。しかし、それはごく手短かな話です。
じいたち漁師なかまは幽霊船に出あいましたので、たいそうこわくなって、力かぎりろをはたらかせて、陸地の方へとこぎすすみました。
すると今度は、いよいよ海坊主があらわれました。海坊主は顔の長さが四尺もあって、目をふさいで、口を少しばかりあいていました。海の上へ胸から上をあらわして、ぬっと立ちあがっていましたが、やはり影のようにぼんやりとしてとりとめのないものだったそうです。舟をこぎあてると、これもたちまち消えてしまいました。そして、じいたちは、ぶじに陸地へかえることができました。
「淘坊主の時は、もうこわくはなかった。それよりもほまえ船の方が気味がわるかったぞよ。」
とじいはいいました。なぜ海坊主などが出るだろうと聞きますと、船が沈没して人がたくさん死んだ場所に出る、ということでした。そして海坊主の出るのは、雨の日にかぎるのだそうです。
ひげのじいは、この海坊主の話を、私がじいの家にあそびに行って、ただ二人きりでいる時によく話してきかせました。私もまた、そういう時にかぎって、じいにこの話をしてくれるようねだりました。海坊主の話をきいた時は、なんだか外へ出るのがこわくて、夜道を一人でかえることができません。私は、じいにつれてもらって家へかえるのでした。
まんまるなお月さまが空に出て、画のように明るい道の上に、じいと私のげたの音が、カラコロとひびきます。そんな時には、じいはいつも、
「弘坊、歌わぬかな。」
といいます。そこで、私は、祖母から習った「お月さまいくつ、十三七つ」とうたいますと、じいはだまって、耳をかたむけていました。じいは、私の家へきても夜は長居をしませんでした。お茶を一ぱい飲むと、さっさとかえってしまいます。祖母の話によると、じいは、夜はじぶんの家にいてお経をあげるのだそうです。若いころおめさんをもらったが、間もなく死なれてしまって、それからじいはズッとひとりで暮していたと、これは私が大きくなってから、母にきいた話です。
ひげのじいは、今生きていれば、七十二、三ですが、どこにどうしていることかまったくわかりません。私が十の年に、行くえが知れなくなったのです。じいは、あの小さな家の中へ、たんすも着物も時計もみな残して、ただあみだ様の画像だけを持ってどこかへ行ってしまいました。なにもわるいことをしたわけではなし、お金のかりがあったわけではなし、なぜじいはだまって行ってしまったのだろうと、母も祖母もうらめしそうにいいました。じいがいなくなったとうざ、私は病気するほど元気がなくなりました。今に帰ってくるだろうかと、二三年は心待ちにしましたが、ついに帰ってきませんでした。そして今はもう二十年あまりの月日がすぎてしまいました。
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