騎士屋(きしや)            土田耕平
 

 私どもが小学四年生のときの受け持ちは、牛島(うしじま)先生でありました。牛島先生は、色が黒くて目がギロリとして、いかにも(こわ)そうな顔つきでしたが、笑うと、まるで別の人のようにやさしい顔になりました。
 先生は、その年の春中学を卒業(そつぎょう)したばかりで、まだ大そう若い人でした。やがて南米(なんべい)へ行くのだと云って、英語の勉強をしておられました。休み時間には一人教室へ残って、(あつ)辞書(じしょ)首引(くびひき)をしている姿(すがた)をよく見ました。
「先生、外へ出て一所(いっしょ)にあそぼうぜ。」
 私ども二三人して、教室の窓をのぞきに行きますと、先生は(ひたい)ごしに大きな目を光らせて、
「うるさいぞ、(だま)っておれ。」
 けれども、その目は(たちま)(ぞう)のように細く、親しい笑顔(えがお)に変わっておりました。
 体操(たいそう)の時間には、私どもはみな先生に()れられて、よく村はずれの原っぱへ遊びに行くことがありました。先生は、(ひさし)の破れかかった学生帽(がくせいぼう)をかぶり、短い(はかま)薩摩下駄(さつまげた)といういでたちで、先頭に立ってサッサと歩いて行かれます。私どもはなかば駈足(かけあし)で、その後へついて行かねばなりませんでした。それは丁度ロシヤと戦争(せんそう)のあったころで、
 赤い夕日に()されて……
という満州戦場(まんしゅうせんじょう)唱歌(しょうか)流行(はや)っていて、
 私どもは、外を歩くときは必ずあの唱歌をうたいました。あれをうたうと、勇ましいような悲しいような、不思議(ふしぎ)な気持ちになりました。
野郎(やろう)ども、もつと大きな声を出せ。」
 先生は時々うしろをふり返ってどなりました。
 村のはずれには、その(ころ)鉄道線路(てつどうせんろ)が新しく()かれたばかりでした。踏切(ふみきり)のところに、まだペンキのにおいのする立札に、「きしやにちゆういすべし」と筆太(ふでぶと)に書かれてあります。私どもは物珍(ものめず)らしそにその仮名(かな)文字を一字々々声に出して読みあげました。
 き、し、や、に、ち、ゆ、う、い、す、ベ、し。
「おめえたち、きしやって何のことか知っているか。」
 突然(とつぜん)先生が()いました。私どもはさっそく返事(へんじ)が出来ずにいますと「(だれ)にも分るめえ。おれが教えてやる。きしやというのは汽車のことではねえ。むかし騎士屋(きしや)と云ってとても強い人があったのだ。この人に出逢(であ)ったら、汽車だって、何だって(かな)わねえ。ううんと一息にはねとばされてしまう。それで騎士屋に注意すべしさ。汽車の方で恐かったのだな。それがどうだ。今の野郎どもはみんな弱くなってしまって、汽車に注意すべし、同じきしやでもえれえ違いになったものだ……」
 私どもはワァーと声をあげました。先生の話しぶりがいかにも愉快(ゆかい)だったからです。先生は大きな目を()いて見せて、またサッサと歩き出しました。私どもは駈足で後へつづいて行きました。そのとき先生の(たけ)高い姿が、ほんとうの騎士屋のようにたのもしく思われました。

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