私の祖父            土田耕平


 私は、幼いころのお父さん、お母さん、おばあさんの思い出は、はっきりしております中に、おじいさんという人を少しも知りません。おじいさんとはいっても、まだ四十二で()くなったのですから。
 このおじいさんは、大そうえらい人だったと、私の子供のじぶん、誰彼(だれかれ)にいいきかされました。
「なぜ、えらいのか。」
とききますと、
「大そう学問ができたから。」という返事(へんじ)をしてくれました。学問ができたからえらい、というのでは、私は満足(まんぞく)することができませんでした。
 少し大きくなってから、こんなことをきかされました。おじいさんは、どんなときにも、手から本をはなしたことがなかった。外へ出るときにも、きっと本をふところへ入れていた。本をよまないときには、何かじっと考えこんでいた。考え考え道を歩いているうちに、一里(いちり)も歩いてしまって、気がついてみたら、とんでもないところへ来ていた――こんな話をきかされたときは、おじいさんって変な人だなと思いました。そういうのがえらいのかな、などとも考えました。
 もう少し大きくなってから、私はまたある人から、こんな話をきかされました。
 おじいさんは、あるとき、文字の話をしたとき、
「わしは、うそ字なら知らぬ。ほんとの字で知らぬは一字もない。」
といったそうです。この話は、私をかんしんさせませんでした。
「なまいきなおじいさんだな。」
とおもいました。
 けれど、おじいさんはまだ若くて死んだのだから、たまには、自慢(じまん)もいってみたのだろう、と後、大人になってからは考えるようになりました。

 私が幼かったころ、二階の間には(ちり)づいた漢籍(かんせき)が、山のようにつんであったことをおぼえています。それがおじいさんの読んだ本の、十分の一にも足らないというのにはおどろきました。おじいさんが亡くなってから間もなく、私の家はおちぶれてしまいました。おじいさんが心をこめてよんだ本も、大方、紙帳(しちょう)(かべ)などに()られてしまったのだそうです。

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