故里(ふるさと)            土田耕平


 山と湖との間の傾斜(けいしゃ)を、ゆるやかに登り下りしてゆく村みちを、私どもは旧道(きゅうどう)と呼びました。湖に沿って、まっすぐに一すじとおっている道を、新道とよびました。
 学校へかようようになってから、旧道と新道と、私はその日その日心のむいた道をえらびました。新道は、両側が湖水と田圃(たんぼ)の見はらしで、馬車がとおる、人力車がとおる、自転車がとおる、後には自動車もとおるようになりました。道にならんで汽車の線路もできました。これらは、みな、私の村の南と北にある二つの町をつなぐ、交通機関でした。家は少なくても、新道はにぎやかな感じがいたしました。
 それにひきかえて、旧道は、ずっと家並みのつづいた間をとおっていましたが、日中でも、しんとして眠っているようでありました。柿の木の(しげ)りの下に、小川のさらさらする音をきくばかりでした。
 学校を出てから、まもなく、私は故郷をはなれて、遠い他国でくらすようになりました。そしてたまたま十年ぶりかでかえって見ましたところ、その南の町も北の町も目にたって、にぎやかになっていました。そして、昔の新道の両側に家数のふえたこと、往復(おうふく)する人や車のしげくなったこと、学校がよいの子供の服装(ふくそう)まで、昔とはすっかり変わってしまいました。
 私は、新道から、なつかしい旧道の方へ足を向けてみますと、これはまた、少しも昔に変わっていませんでした。(かや)ぶき家も、小川のせせらぎも、道の石ころも、みな昔のままで、柿の木や、うら山の木立が一層(いっそう)深い茂みとなっているのが、感じられました。
「わがふるさと。」
 私は心の中で呼びかけました。二つの町の栄えは、新道一すじにつながれてしまって、旧道ぞいの私の村は、今だにむかしのままの夢をむすんでいるのでありました。
 私の生れた家は――おばあさんの()()われて、湖水の夕焼雲をながめた家は、私が学校を出る間もなく、焼けてしまって、そのあとは、桑畑(くわばたけ)になっています。私は、昔支那(しな)の詩人のうたった、「国破れて山河あり城春にして草木(そうもく)深し。」という句を、おもい出さずにはいられませんでした。
 「ふるさと」「ふるさと」むかしのえらい人たちも、みな故郷をこいしがったことを考えました。

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