号外            土田耕平


 日露戦争(にちろせんそう)のあったとき、私は小学の生徒でありました。日本にとって命がけの戦争でありましただけに、幼い私どもの心持も、日常(にちじょう)おちつきがありませんでした。学校で授業を受けているときでも、
「号外々々。」
という呼び声がきこえてきますと、私どもの心は、すっかり戦争の方へとんで行ってしまいました。一時間の授業の終わるのを、どんなに待ちあぐんだことでしょう。ようやく時間のリンが鳴りますと、私どもはいっせいに立ちあがって、口々に、
「先生、号外々々。」
 先生が職員室(しょくいんしつ)の方へ行って、やがてひきかえしてくる姿(すがた)を、私どもは胸をおどらせて待っていました。号外を片手にした先生は、黒板に大きな文字で書き示されました。
  日本軍大勝利、
  ××占領(せんりょう)
 そのあとで、勝戦の次第(しだい)を一通り説明して下さるのでありました。
 ある日のことでした。体操(たいそう)の時間に、私ども一組の生徒は先生につれられて、郊外(こうがい)へ出かけました。田圃(たんぼ)の稲が色よく(じゅく)して、空には赤とんぼの群れが羽をひらめかして飛んでいました。細い一本道を、先生が真先に立って、私どもはそのあとへ一列にならんで行きました。
 先生はときどきうしろをふりかえっては、唱歌(しょうか)のあいずをされました。私どもは、声をはりあげて、
  赤い夕日に照らされて……
という戦争の唱歌をうたいました。唱歌がすむと、こんどは駈足(かけあし)です。長い田圃道をどこまでというあてもなく、足が(ぼう)のようになるまで駈けつづけることが(つね)でありました。戦時の少年は弱音(よわね)を吐くことが禁物(きんもつ)でした。
 その日も、さんざん駈け歩いて、やがて帰りみちについた時のことです。私どもの歩いて行く一本道のむこうから、リンリンリンと鈴の音をひびかせて、いせいよく駈けてくるのは、一目見てわかる号外売の少年でありました。
 みんな一度に足をとめました。先生が少年の手から一枚の号外を受けとるのが見えました。たちまち先生は、私どもの方へ向って両手をさしあげ、ピョンと高くとびあがって、
「ばんざい。」
と叫びました。私どもも一せいに手をあげて、
「ばんざい。」
と叫びました。先生は()が低くてふとっていましたので、そのとびあがった姿が、丁度(ちょうど)ゴム(まり)かなどのように見えました。
 それがどこの勝戦であったのか今少しも覚えていません。道々先生の話して下されたことも、みんな忘れました。ただ、あの身がろくとびあがった先生の姿は、二十年あまりすぎた今なお、はっきりと眼のさきに思いうかべることができます。そして私は、先生にむかってもう一度「万歳」を叫んでみたい気持になります。

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