見送り 土田耕平
「今夜、夜なかの一時に、出征軍人を乗せた汽車が××駅を通る。お父さんは役所の人たちと一緒に見送りに行くのだが、どうだ、おまえも行かぬか。」
ある日の夕方、役所からかえってきた父は、私に向かってこう云いました。
「行く。」
私はすぐに答えました。
「こんな寒いときにお止めよ。」
と母は云いましたが、私は、何のためらうこともなく、父と同行することに決めてしまいました。
それは私が十才の少年のとき、日露戦争中の冬のことでした。私どもの住居は、××市のはずれにありましたので、駅までは町をよこぎって一里足らずの道のりがあります。私はいく度となく、父につれられ、また近所の遊び友だちと一緒に、駅へ行って、遠い満洲の野へ出かけて行く兵士を見送りました。けれど、それはみな昼のことでしたので、今夜ま夜なかに見送りに行くということが、何となく幼い私の心をおどらせたのでありました。
夕飯がすんだ後、父と母と私は炬燵にあたって、今さらのように事あたらしく戦争の話にふけりました。勝ちいくさの勇ましい話ばかりが、私ども国民の間には伝えられていましたので、戦争の悲しい一面はしぜん心の中からかき消されていました。まして私はまだ幼い子どものことでした。暖かいこたつで茶菓子をいただきながら考えてみる戦争は、画巻物のようにただうつくしい方しか分かりませんでした。
「まだ十二時にならないの。」
私はいく度もこういってたずねました。十二時になったら出かけようと父が云っていましたので。
「やつと八時すぎたばかりだよ。」
母は笑いながら答えました。冬の夜は早くあたりが寝しずまって行くのに、時計の針はなかなか進もうとしません。私は炬燵によりかかったまま、とうとう眠ってしまいました。
「さあ、お父さんはお出かけだがおまえはどうするの。」
母の声で、かるく肩をゆすられると、私ははねかえるようにこたつから立ちあがりました。しぶい目をこすりながら、戸まどいしたように室の中をうろうろして、
「お母さん、僕の襟まきは。」
「何をいうの、ちゃんと襟まきは宵のうちからしているじゃないの。それよりかおまえは止めにしたらどう。」
私は首を横にふりました。すっかり身仕度をととのえ、厚く着ふくれて家を出ましたが、一足外へ踏み出すと凍るような寒さが頬に感じられました。父は役所通いの洋服の上へ外套をまとっていました。
町どおりは人一人通らずしんとして、電灯の光だけあかるいのが、ひどくものさびしく、これから出征軍人を見送りに行くという、勇ましい陽気な気持ちとは、うらはらのものが感じられました。道はかたく凍っていて、足音がカラカラとひびきました。
私は父の手にとりすがって走るようにして歩いて行きました。
駅へ着いて、待合室へ入ってみますと、父と同じような姿の人が五六人と、それに警官が一人いるだけでした。兵隊を見送るというのだから、大そうにぎわっているつもりで来ましたのに、意外でした。昼はここに黒山のような人だかりがして、万歳々々の声があたりを揺がすようでありましたのに。
父は誰彼とあいさつをしました。その中の一人が私に向かって、
「ヤア坊ちゃん、元気ですね。」
という声は、私の家に時々立ちよったことのある、父と同じお役所づとめの人でした。外套にからだを包んでいますので、よそ目には誰だかわかりませんでした。
「なかなか冷えますね。」
「もうやがて着く時間でしょう。」
人々は時々こんなことを云いかわすだけで、コツリコツリと靴の音をさせて、石畳の上を行ったり来たりしています。ストオブは火種もなく冷えきっていました。
やがて私どもは改札口からプラットホームへ出ましたが、切符も何も要らずに駅夫が通してくれたのが、何となく常と変わった気持でした。汽車の来る方角を見ますと、シグナルが一つ青くともっていました。かすかな遠いひびきがレールに伝わって、たちまちゴオゴオというとどろきが迫ってきました。汽車は私どもの目のまえに大きなうすぐらい姿をよこたえました。客車の窓はみなしまっていました。その一つの窓があいて顔をあらわしたのは、将官の服装をした一人でした。
「万歳。」
プラットホームに立った人たちは、帽子を片手にささげてこう云いました。私もかねて父にしめされていましたから、一所に声をそろえました。将官は挙手の礼をかえされました。その顔は少し痩せ形で、口をしっかりとじていました。私は父の手にすがって、将官の顔をふりあおぎました。
汽笛が鳴って汽車がうごき出したとき、私どもはもう一度万歳をとなえました。将官はまた挙手の礼をされました。ゆるやかに汽車は私どもの前をすべって、やがてその一つの窓がおろされるのを見ました。
かえりの道で私は父にたずねました。
「兵隊は来なかったの。」
「みんな汽車の中で眠っていたのさ。夜よく眠っておかないと戦争ができないからな。」
と父は答えました。
「あの大将はなぜ眠らないの。」
私はまたたずねました。父は、これには、
「ウム。」
といったきりでした。
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